【コラム】願書作成上の留意点
慶楓会 小学校受験コース主任 松下健太です。
小学校受験についてはいよいよ出願間近となり、ご家庭におかれては、願書作成の真っ只中という方も多くいらっしゃるかと存じます。着手が早かった方の中には、とうに終わっている、という方もいらっしゃるとは存じますが、毎年ぎりぎりまで文章が組み立て切らないという方も一定数、見受けられます。今回は、願書に記入する文章の留意点について、「こういった例は危うい」という視点からお示しします。すでにある程度書き終えていらっしゃる方につきましても、今一度、ご自身の文章を振り返りながらご覧いただければと存じます。
願書は、入学を願い出る書面
上に掲げた通り、まずご認識いただきたいのは、願書は入学を願い出る書面である、ということです。その視点を外して、自分が書きやすい形式、あるいは書きたい内容のみを書いている、独りよがりな願書が多く目につきます。
当会でも願書添削でお預かりする願書を拝見する中でも、例えば以下のような記述例が散見されます。
- 論文調、または業務の提案資料のような願書
- 卑近過ぎるエピソードに言及が終始する願書
- 学校案内、HPに書かれている文言のコピーに近い願書
- 志望校の教育方針が、我が家の家庭教育に合致していると述べる願書
どういった点が問題であるのか、ひとつひとつコメントしてみたいと思います。
独りよがりな願書の問題点に関するコメント
「論文調、または業務の提案資料のような願書」の問題点
このパターンの場合、多くはお父様が文章を書かれているケースが多いようです。
いわく、
我が家の家庭教育と貴校の教育内容を鑑みて、我が子の将来に有益であると考えるので入学を志願する。
その理由は以下に示す通りである。
第一に、――。
第二に、――。
第三に、――。
以上より、貴校に入学させることが我が子の将来にとって有益であることが明白であるため、入学を志願する。
上記は極端な例ですが、これに近いことをお出しになる方も多くいらっしゃいます。
入学を願い出る立場として、卑屈になる必要はありませんが、あまりに尊大な印象を受けてしまいます。歴史や伝統のある学校への入学を願い出る立場として、慎ましくも末席に座らせていただくという姿勢が欠けています。また、私学に通うということは、その学校文化の中に染まるということです。なんでも理屈、理詰めで物事を押し通そうとする保護者は、敬遠されがちです。
自分達目線ではなく学校目線でものを考える謙虚な姿勢を身につけているとともに、論理だけでは成り立たない、私学に通うことの文化的な側面への配慮が行き届いた、安心できるご家庭が望まれています。
「卑近過ぎるエピソードに言及が終始する願書」の問題点
願書には、ご家庭が見えるエピソードを書くことが望ましいということは、多くの方が了知されていることと存じます。ただし、どのようなエピソードでも良いというわけではないことについて、見極めを誤っておられる方がいらっしゃいます。例えば、以下のような例です。
娘には優しい心が育っています。先日も、電車の中でお年寄りに席を譲りました。また、いつも弟の喜ぶ絵を描いてあげています。
まず前提として、「優しい心」は言うまでもなく、育っていて然るべき資質です。逆に言うと、優しい心が育っていないお子さんを、学校側は進んで受け入れようと思うでしょうか? あまりにも当たり前な事柄を述べても仕方がありません。さらに「電車で席を譲った」というようなことは、社会常識として当然の出来事であるので、取り立ててそのようなことを記述することで、かえって底の浅さを露呈するようなものです。年少の弟妹に対して思いやりを持って接することも、もちろん微笑ましく望ましいことではあるものの、表現できる分量が制限されている願書の上では、取り上げ方への慎重な姿勢が必要です。
同じ「優しさ」を取り上げるにしても、例えばミッションスクールであれば、「神さまの分け隔てない愛への気づき」を家庭内で大切にしている、などといったものの見方に基づく、具体的な家庭の姿が大切です。家庭内での愛情深い育みが子の内面に浸透した結果として、子自身も愛のある行動を実践できるようになりつつあるということ、それが日向の見えやすい場所での活躍だけでなく、見えにくい場所での人知れぬ奉仕にこそ、神様はより目を向けてくださるということを教えている、といった表面的ではない愛を大切にした家庭の姿の記述として現れることが望ましいです。
「学校案内、HPに書かれている文言のコピーに近い願書」の問題点
学校研究が深まっていない場合に、こうした願書になりがちです。私学にはそれぞれ、建学の精神というものがあり、それがスクールモットーや学院標語といった形で示されていることもしばしばです。そして、こういった言葉は、それぞれの学校の中では非常に大切にされているものです。その言葉にかける思いは、学外からは及びもつかない深い理念が込められており、安易に引用することはむしろ危険です。
また多くの学校において、育てたい子ども像あるいは能力として
- 国際社会で活躍できる見識を育てる
- 感性豊かな子どもを育てる
- 心身ともに健康に生きる力を育てる
といったような事項が示されていることもありますが、こうした文言をただ引っ張ってくることも避けた方が良いでしょう。なぜならば、学校ごとに力点や方法は違えども、すべての学校は、子どもたちを良い方向に向けて育てるという使命に関しては共通しているのであり、それに対する同意や賛意だけでは、その学校でなければならないという決定打に欠けてしまうので、説得力の非常に弱い願書となります。
実際のところ、先に述べたように学校側のメッセージを、ほぼコピーのようにして願書に書いてしまうような場合にはその学校のことをあまり理解していない場合が多く、何を書けば良いのか分からずに苦し紛れのように、学校の言葉遣いを模してしまうことが多いのです。そういう、熱意の見えない願書は、何百枚もの願書を読む先生方には、中身が伴っていないことをすぐに見透かされてしまいます。
「志望校の教育方針が、我が家の家庭教育に合致していると述べる願書」の問題点
一見、何がよろしくないのか、疑問に感じられる方もいらっしゃるかもしれません。しかしながら、このパターンに関しては、非常に本質的で危うい、注意すべき点が含まれています。それは、学校を相手にして自分達の家庭のことを同列に掲げ、あるいは目線を上にしてものを語ってしまっている尊大な姿勢が透けて見えるということです。
よくあるパターンは、
- 御校の教育方針に、共感しております。
- 我が家の価値観が、御校の教育方針に一致しています。
などと言ってのけてしまうことです。
歴史と伝統ある学校を相手取り、そこで長年にわたり積み重ねてこられた教育実践の厚み・重みを前にして、自分達が気軽に「共感します」と述べたり、あまつさえ自分達の価値観を主語にしてそれが学校側と一致すると主張するような尊大な姿勢は、絶対に避けなければなりません。
これまでのコラムでも度々述べている通り、自分達が選考を受ける立場であるということをしっかりと自覚して、それぞれの学校が大切にしている価値観や、育まれている文化を尊重し、その輪に加えていただくための謙虚で真摯な姿勢を大切にしたいところです。たとえ学校説明会等で「保護者の皆さまの学校選択」といった表現がなされていたとしても、それはある種の建前であり、志願者はあくまで「選んでいただく」立場であるということを忘れないようにしましょう。
学校への思いが溢れる、唯一無二の願書を
子どもには、毎日のお教室通いを強いる一方で、保護者の方の準備が著しく遅れてはいませんか? 子どもたちが、遊びたい気持ちも抑えながら、机に向かい繰り返してきた学習、暑さも寒さも跳ね除けて積み重ねてきた練習の成果を最大限に発揮しても、一方で保護者の側が易きに流れたり、忙しさを言い訳にして準備が不十分であったりといったことがあると、せっかくのこれまでの日々が実を結ぶための大きな障壁になってしまいます。
どこか別の学校のために書いた願書の焼き直し、とりあえず当たり障りのないことが並べられた文章、こういったことは、学校の先生方にはすぐにわかってしまいます。その学校への思い、憧れ、願い、祈り、愛情、そうしたものを一筆入魂の勢いで記述するのが願書です。
当会会員の方は、これまでの授業でのフィードバック、面接練習、保護者課題、ご面談、各種のセミナーでお話ししてきたことをすべて総合して、願書作成に臨んでいただきたく存じます。とくに学校研究セミナーでお話しした内容については重要ですのでよく振り返りをお願いします。
なお、会員の方に限り、学校研究セミナーは、録画した内容にて今からご受講いただくことも可能ですので、ご希望の方はお知らせください。
これからの時期、保護者の方が大きな愛情でお子さんを包み、自信を育んで本番に向かっていく意識を養うことが大切です。そのためにも、保護者の方自身におかれても、ご自身でやりきったと言えるような願書作成をなさっていただけるよう、切に願っております。
執筆
小学校受験コース 主任講師 松下健太
体験授業・ご面談も随時承ります